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January 02 連載小説「ねじまがり」最終回「百九十八円になります」 あ。 これは嫉妬だ。 財布を開けた瞬間に、唐突にそれと気がついた。 なんという、可笑しなことだろう。わたしは、このわたしでなくて彼女が水を持っていって彼に会うということに、心底、嫉妬しているのだ。 それどころか、よくよく自分のおなかの中を覗いてみると、彼はきっと、もう一度私に会いたいと思っているだろうに、明日また来るとも来ないとも言わずに、私が帰ってしまうはずはないと心配しているだろうに、とまで思い詰めてもいるのだった。 へええ。 私はうっすら微笑んだ。 自分のあまりにも強い執着心と過保護ぶりに仰天し、感心した。小銭をきっちり出してお金を払い、水のボトルをビニール袋に入れてもらって店を出た。レジの若い男の子が不気味そうにしていたが、それも全く構わなかった。 へええ。 ほお。 可笑しくて病院へ戻る道々ずっと、くすくす笑っていた。 戻ると、ケースワーカーの女性が玄関の外で待っていてくれる。 玄関にはもう鍵がかかっていた。窓越しに見ると待合室は薄暗く、夕焼けに照らされたたソファだけがてらてらと光っていた。 「よろしくお願いします」 私は、感じよく見えるようにと笑顔を作った。さきほどの苦々しい気持ちは笑い飛ばされて、一滴も残っていなかった。自分のなかに湧き上がったいやな感情を取り出してよくよく眺めてみると、それは毒々しさを失い、いっそ滑稽なのだった。 「お預かりします。お気をつけて」 ケースワーカーの女性は笑いながら会釈をすると、あかあかと電灯の燈った病棟へ向かって歩いて行く。と同時に、私は背を向けてさっさと病院をあとにした。 もう、さきほどの未練たらたらな気持ちはなくなっており、すっかり荷物を降ろして預けてしまったような、さっぱりした気持ちになっていた。 いいお医者さんが見つかってよかった。 たいへんでしたね、と言ってくれる人がいてよかった。 バス停まで歩いているうちに、うきうきした気持ちになった。 空に夕焼け雲が浮かんでいた。桃色をしたふくよかな雲だった。私はバスを降り、駅前の本屋へ行った。前から読みたいと思っていた小説を迷わず二冊買い、それからスーパーの地下食品売り場でちらし寿司と味噌汁を買って家へ帰った。 戻ると着替えて荷物の整理をし、ゆっくりちらし寿司を平らげ、ゆっくりお茶を飲んだ。 それから買ってきた小説を開き、こころゆくまでページをめくった。 ああ、たのしい。 思わず声が漏れ、私は辺りを見回した。 窓のサッシは閉まっていた。隣の部屋に聞こえるほどの大声でもない。 それでも、私は自分を戒め、背筋を正した。 たしかに、しばらくは、ゆっくり眠れる。 待つ人のことを気にせずに、会社帰りに本屋に寄れる。 寝る前に、こころゆくまで本が読めるし、何かから解放されたような悦びがある。 でも、それは、「いけないうれしさ」なのではないだろうか。 夫が病気で入院しているのだから、粛々と寂しげに暮らすべきではないのだろうか。 まるでお祝いのようにちらし寿司を買ってくるなんて、もってのほかなのではないだろか。 私は空になった器をしみじみと眺めた。ちらし寿司の入っていたプラスチック容器には、一粒たりとも米粒が残っていなかった。 とたんに自分が冷淡で図々しい女になったような気がしてぞっとした。 しかし、それならば、いっそ、彼をひとりで背負っていればいいのかというと、そうでもない。 ひとりで背負えば、背負いきれずに結局は彼を責めてしまう。 一緒にいれば、なんのかんのと文句を言い、あなたが負担、あなたがいるから疲れると、ひどいことを言ってしまい、弱い者をいじめたような苦々しさが残ってやりきれない。 そう思うだけで本当に喉元まで苦いものが込み上げて、私は押し戻すように唾を飲んだ。 うしろめたさと苦々しさ。 どちらがいい、というのではない。どちらが悪い、というのでもない。 でも、どちらかといえば、うしろめたさのほうがまだいいのではないか。 弱い者をいじめてしまう自分の醜さを苦々しく思うよりは、ずっといいのではないか。 いじめられる夫からすれば、なおさらだ。 ちくちくといじめられるよりは、いっそ病院に預けてくれたほうがいいだろう。 私が、ひとりでせいせいとして鼻歌でも歌いながら、うしろめたいなあ、と思いながらも、ちらし寿司をつついているほうが、ずっといいだろう。 そう思いながらも、私はしんとした台所で、果たして、この、しみじみとしたうれしさと、うしろめたさはどうしたものか、と考える。 夫もいまごろ病院のベッドで私から解放されたうれしさをしみじみと味わい、すこしばかりうしろめたくなっているのだろうか、とも考える。 やれやれ。 私は空の器を持って立ち上がり、勢いよく水道をひねって器を洗った。 それから、明日、病院へ届ける下着の用意をし、病院の白いベッドに横たわる痩せた夫の背中を思い浮かべた。(終) December 31 連載小説「ねじまがり」第2回一時間も話したか。 最後の言葉が口から出てしまうと、私は、ほーっと長いため息をついた。 それから、しばらく放心していた。 「おくさん、大変でしたね」 ソーシャルワーカーの女性が静かに言った。 とたんに、涙がにじんだ。こらえるのに苦労をした。それから、からだが、ゆるゆると緩んでいった。それまで、そんなにからだが硬く緊張しているとは気づかなかった。 夫の具合が悪くなってから、「まるで、頭の先から足の先まで針金を通したように神経を張り詰めてして生活してきて胸のなかに重く大きな石ころをずっと抱えていて息をちゃんとしていなかった」ということに初めて気がついた。 「大変でした」 私は涙をこらえたまま、口をへの字にして笑った。 「だんなさんも、おつらかったでしょうね」 ケースワーカーの女性が、首をかすかに傾けた。 そのとき、頭に何かがこつんと当たったようだった。何かがこつんと当たった拍子に、ふと、ある考えがひらめいた。 「あ」 私は口をうっすらと開いたまま、夫のほっとした様子を思い出した。 きっと、夫も同じだったのだ。 自分の痛みや苦しみや、やるせなさや、妻と一緒にいたいと思う気持ちと、その反対に妻と離れたいと思う気持ちと、いろんな物語を私にとうとうと語れば、私が鬱陶しい顔をするので、誰かにとにかく聞いてほしかったのだろう。 私たちは、似たもの夫婦なのだった。 内弁慶なところも、明るく外交的に見えるくせに実は内気で臆病で人見知りなところも、自己顕示欲が強いくせに劣等感が強くて、見栄っ張りなくせに気が小さくて、そういうところが全部似ているのだ。あるいは、内弁慶だからこそ明るく外交的で、内気で臆病で人見知りだから自己顕示欲が強いのかもしれない。 いずれにしても、やっかいなのだ。 まっすぐでなくて、ねじまがっている。 ねじまがり具合が同じ方向を向いているようなので結婚したが、ふたりして思い思いの方向へねじまがってしまうと、修正できる者が誰もいない。 どうして長いこと一緒にいて、そのことに気づかなかったのか。どちらも自分のねじまがり具合が正しくて、相手のねじまがり具合がおかしいのだと思っていたから、あちこちぶつかり合うのだと、どうして思い当たらなかったのか。 「どうかしましたか?」 心配そうに彼女が私を覗き込んだので、とっさに、夫が先ほど言っていたことを思い出した。 「あ、えっと、あとで水を買ってきてほしいと言われていたんですけれど、買って持っていってもいいですか?」 「水ですか?」 「主人はh水道の水が飲めないんです」 私は鞄とコートを手にして立ち上がった。 すっかり外は暗くなり、面会時間はとっくに終わっていた。 「ごめんなさい。もう、中へは入れないんです。買ってきたら、私が持っていってあげますよ」 ソーシャルワーカーの女性は、吃驚する様子もなく、どこまでも寛容に接してくれた。唐突な発言や突飛な行動をする人間には、慣れているのかもしれなかった。 「ありがとうございます。でも、どうしても自分で持っていきたいんです。もう、会えませんか? さっき、なにも話さずにここへ来てしまったので。もう、これで帰るからとひとこと言って帰りたいんですけど」 「もう、ゆっくりお休みになっていらっしゃると思いますよ、だんなさん」 ソーシャルワーカーの女性は、やさしく微笑んだ。 すると、急に、こころぼそい気持ちになった。 むりやりに、仲を裂かれたような気にさえなった。 「そうですね」 つぶやくと、なおのこと、さみしくなる。 「大丈夫です。私がちゃんと届けますから」 彼女はもう一度念を押した。 「では、買ってきます」 しかたなく、そう言った。そうは言ったものの、釈然としなかった。 「私、ここで待っていますね。お水、旦那さんに渡してあげますから」 彼女の優しさが余計に気に障った。 この、苦々しい気持ちはなんだろう。私は憮然としたままコンビニへ行き、ずんずん奥まで入って行って二リットル入りの水のペットボトルを抱えてレジへ向かった。(つづく) December 30 連載小説「ねじまがり」第1回なんとなく、きのうから、追悼「だんなさん」の気分。 明日は大晦日だからかな。大晦日にまぐろの刺身を買いに行くのは、だんなさんのお仕事でした。 というわけで、年末年始は、追悼「だんなさん」小説。これは、今年の2月に書いたもの。 なつかしいなあ。では、どうぞ、ごゆっくり。 ///////////////////////////////////////////////// 「ねじまがり」 夫が今日、入院した。 以前から調子が悪かった。夜中に起きて、苦しい、苦しい、と言ったりしていた。眠れない、食べられない、吐く、下痢をすると言って、目の下のくまがどんどん黒くなる。頬がげっそりとこけて、この間までは二重顎になるのを心配していたくらいだったのに、すっかり顎の肉が削げて、尖ってしまった。 「薬がきかないんだ」と夫は言う。 「ちがう医者に行ってみようかと思う」 「そう」 「どうしたらいいだろう」 「どうしたらいいだろうね」 台所のテーブルを挟んで向かい合って、ふたりとも途方に暮れてしまう。 「入院したいんだけどね」 夫はうなだれたまま、聞こえるか聞こえないかの小声で言う。 「君に迷惑をかけるから、お金のことがね」と言いながら、悲しみのたまった眼をして私にすがる。
そんな風だったから、私の気持ちもあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしていた。 夜中にうめいていれば、起きて背中をさすってやったりもする。 明け方に、眠れないという声を聞けば飛び起きて話を聞いてやり、そのまま寝ずに仕事へ行ったりもする。 仕事から帰って、夫がどんよりとした眼をして座っているときには、食事を買ってきて背中をさすってやって寝かせ、明るい顔をしているときには、一緒に居酒屋に行って彼がよれよれに酔うまでつきあってしまう。 私も疲れて眠いので、いっそ誰かに決めてほしいと思うくらいに毎日ぼんやりとしている。朦朧とした頭で、誰かしばらく夫を引き取って看病してくれないだろうか、などと叶わぬことを思う始末であった。
それで、病院へ連れて行った。それまで通っていた医者とは別の、彼が、かねてから行ってみたいと思っていた病院へ一緒に行った。
長い問診のあと、医者はカルテに何かを書きながら静かに言った。 「入院しますか?」 医者がカルテから顔を上げて夫を見ると、夫はゆっくり首を回して部屋の端に座る私を見る。 「本人に任せます」 私が言うと、夫の顔が輝いた。それで、入院することになった。
病院のベッドに腰を下ろした彼は、ほーっと長いためいきをついたように見えた。夫がためいきをついたのではない。腰を下ろした瞬間に、はりつめていた彼のまわりの空気がほーっとゆるんだような気がしたのだった。 ほどなく、ソーシャルワーカーの男の人が来て、あれこれと細かい入院についての説明をしてくれた。体重を測り、血圧を測り、「もう、心配ないですよ、ゆっくり休んでくださいね」と優しい声をかけてくれる。 時計を見ると四時だった。
私は入院の手続きをしに事務局と呼ばれる部屋へ行った。今度は女性のソーシャルワーカーが小部屋に案内してくれ、広いテーブルを挟んで向かい合い、パイプ椅子に腰かけた。彼女は疲れた顔をしていたが、それでも丁寧に手続きの説明をしてくれた。私は何枚もの書類に記入し、はんこを押した。はんこを押すところが、十も二十もあった。それで、十も二十もはんこを押した。 「すみません、こんなに多くて、はんこ押すところ」 「いえいえ、大丈夫です」 私は、一枚ずつ難しい文章を読んで、はんこを押す。彼女は、私がはんこを押すとその紙を脇へよけ、次に押すべき紙を私の手元に滑らせてくれる。 ひとつずつ押しながら、いつの間にか、とろとろと言葉が口から漏れはじめた。 どんなに彼がつらそうだったか、どんなに休める場所を求めていたのかなどについて、 言葉はとめどなく流れた。どこにこんなにたくさんの言葉が潜んでいたのかと呆れるほどに言葉はつらなり出てテーブルの上に重なった。 私の口から出たのはそれまでに私が抱えていたらしい膨大な物語だった。愚痴のような、心配のような、不安と不信と(それは主にそれまでかかっていた医者や薬への)、疲弊と世迷言と、彼を気遣いたい気持ちと、それとは裏腹に、彼を捨てて逃げてしまいたい気持ちと、いとしいような、とことん面倒を見たいような気持ちと、いっそ縁を切ってしまいたいぐらいの気持ちと、そんなものが、とうとうと私の口から出てきたのだった。 (つづく) December 06 公開小説「ながみねさん」 風がビルの間をびゅうびゅう吹き抜けて行く日、ながみねさんと昼食に行った。
それから、コーヒーを飲み、勘定を払い、チューンガムをもらって焼肉屋を出た。 外へ出ると、相変わらず風が強かった。 わたしはマフラーを首に巻きつけ、ながみねさんは両手を胸の前でぎゅっと合わせた。 誰かといっしょに暮らして、ぶつかったり、仲直りしたりして、成長していくのかねえ。 わたしが言った。 帰りは追い風なので、すいすい足が前に進む。背中から誰かに押されているようだった。 そうですよ。 ながみねさんが、静かに言った。 みそのさん、苦労損、なんてないですよ。苦労はたくさんするだけ、自分のためになります。 わたしはそっとながみねさんの横顔を盗み見た。 ながみねさんの長い睫毛とリスのような愛くるしい目はそのままだ。 けれど、いつのまにか、最初に感じた「ずれ」がなくなっていた。 わたしが言葉を投げたまっすぐ先にながみねさんがいて、ながみねさんの言葉はわたしの真正面から、ゆっくりとまっすぐにこちらに届いた。 |
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